豊臣秀吉とはどんな性格の人物?その生涯と晩年、名言、死因など


豊臣秀吉

豊臣秀吉(1537もしくは1536〜1598 )――織田信長、徳川家康と並んで、いわゆる「戦国三英傑」に数えられる戦国武将のひとりです。彼の波乱に満ちた生涯と、日本でも史上稀に見るほどの大躍進劇は、多くの人から尊敬を集め、今でも「出世」の代名詞といえる存在です。と同時に、テレビドラマの時代劇などで、彼は魅力的なキャラクターとして描かれています(2026年のNHKの大河ドラマ「豊臣兄弟!」 は、この秀吉の弟・豊臣秀長を主人公とするストーリーが放送予定となっています)。

今回の記事では、そんな豊臣秀吉がたどった数奇な人生を、人物像や用いた家紋などともにご紹介します。

豊臣秀吉の生涯

まずは、この豊臣秀吉という人物がたどった生涯を振り返ってみることにしましょう(以下、秀吉の生涯に関する情報は、主に『豊臣秀吉 ――天下統一への道――(よんで しらべて 時代がわかる ミネルヴァ日本歴史人物伝)』(小和田哲男監修、西本鶏介文、青山邦彦絵、ミネルヴァ書房、2010年)を元にしています)。

秀吉の若いころ:放浪、信長との出会い、懐に温めた草履

豊臣秀吉は1537年(1536年とする説も)、尾張国(愛知県)に、農民の子として生まれます。子供のころから、お寺に預けられたり、米屋や鍛冶屋などに小僧として預けられられたりしていたということですが、結局はどれも長続きしませんでした。15歳の頃には木綿針を売り歩いたとも伝えられていますが、やがて生まれ故郷に戻った秀吉は、幼馴染の紹介で織田信長に仕えることとなりました。

豊臣秀吉

秀吉が草履取り(※主人の外出のとき草履をそろえ,替えの草履を持って供をした下僕の意味。参考:『スーパー大辞林』)として信長のもとに仕えていた際の、有名なエピソードに「懐に温めた草履」の話があります。ある冬の寒い日、信長に温かい草履を履いてもらうため、秀吉は信長の草履を懐に入れて温めていました。秀吉が懐で温めていた、この草履を履いた信長は、秀吉がこの草履の上に座っていたのだと思い込んで、叱ってしまいます。しかし事情を聞いたのち信長は、秀吉にすっかり感心してしまい、それから秀吉を「サル」と読んで可愛がることになったというお話です。自分が仕える主人(信長)に気を配り、真心を尽くして信長の心を動かした秀吉はこの後、信長のもとで大躍進を遂げていくこととなります。

豊臣秀吉が成し遂げたこと:天下統一、太閤検地、刀狩令

小田原城
小田原城 ⓒKanagawa Prefectural Tourist Association

信長のもとに仕え、戦いでの活躍も認められた秀吉は、仕えはじめてから20年後には「大名」となるまでの躍進を遂げます。1582年に「本能寺の変」で信長が明智光秀の裏切りに遭い、自害に追い込まれると、今度は秀吉が明智光秀を倒し、信長の仇をとります。当時の信長は天下統一(「内乱が終わって一つの大きな国家ができること」 )を目指し、歩んでいる最中でした。信長の後を継いだ秀吉は、1590年に北条氏の小田原城(神奈川県)、奥州(東北地方)を平定して悲願の「天下統一」を成し遂げるのです。

そんな豊臣秀吉が行った政策として有名なものに、「太閤検地」と「刀狩令」 があります。太閤検地とは、1582年から1598年にかけて秀吉が大規模に行った検地、すなわち「土地の広さや米の収穫高を調べる調査」です。広さや収穫高を図る基準がまちまちだったそれまでの検地を改め、計量の基準を全国的に統一することで、収穫できる米の量を正確に調べました。ちなみに、この太閤検地の「太閤」とは、秀吉が呼ばれていた名称を指しています。

また、刀狩令とは、農民から武器を取り上げることを定めた法令です。戦国時代には、兵士として戦うこともあったため、農民たちは武器をもっていました。この「刀狩令」によって、農民から武器を取り上げることで、「武器をもって支配する武士」と「年貢をおさめる農民」の身分がはっきりと区別されることになりました。

豊臣秀吉の晩年、没後に起こった出来事

秀吉の晩年に起きた大きなことは、朝鮮への出兵でした。大陸支配の野望を抱くようになった秀吉は1592年、15万の大軍で朝鮮への出兵を行います。出兵は五年後にも再び繰り返されることになりますが、結局勝つことはならずに秀吉の死後、日本へ引き上げてくることとなったのです。秀吉は1598年、病気で寝たきりとなった末、62歳で亡くなりました。

秀吉は亡くなる前、枕元に呼んだ重臣たちに、まだ幼かった息子の「秀頼を助け、豊臣氏をもり立てること」を誓わせたと言います。ところが秀吉の没後、重臣の一人だった徳川家康が、この秀頼に代わって政治の実権を握ることとなるのです。やがて家康は、豊臣氏をもりあげようとする立場の石田三成と対立し、秀吉の死から二年後には「天下分け目」の戦いとして知られる「関ヶ原の戦い」を招くこととなるのです(この段落の内容は、大石学監修『安土桃山時代(歴史の流れがわかる 時代別 新・日本の歴史⑥)』学研教育出版、2010年、44〜45ページを参照しました)。

豊臣秀吉の人物像

ここまで、豊臣秀吉の生涯の足取りを確認してきました。ここからは少し視点を変え、秀吉の人物像に迫ることとしましょう。ポルトガル人宣教師のルイス・フロイス(1532〜1597) は秀吉について、彼の著作『日本史』の中で、以下のように述べています。

「彼は自らの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、(それとは)比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事を自らの考えで決定し、誰一人、あえて彼の意に逆らうがごときことを一言として述べる者はいなかった」
「彼は尋常ならぬ野心家であり、その(野望)が諸悪の根源となって、彼をして、残酷で嫉妬深く、不誠実な人物、(また)欺瞞者、虚言者、横着者たらしめたのである。彼は日々数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、(人を)欺くことに長じているのを自慢としていた」(フロイス『日本史1 豊臣秀吉篇Ⅰ』松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社、1977年、318ページより)

記述はあくまでフロイスの主観的なものでしょうが、引用した箇所を見るかぎり、秀吉の人物像に関する彼の評価はあくまで否定的なものとなっています。余程のことがないかぎり、現代人が描く〈秀吉像〉には、立場が上の者に上手くとり入る一方、下の者たちの心をもうまくとらえる、いわば人心掌握に優れた(ゆえに大出世を遂げた)人物というイメージがあります。そんなイメージからすると、「極度に傲慢で、嫌われ者」「残酷で嫉妬深く、不誠実な人物」とフロイスに評される、他者に不寛容な〈秀吉像〉にはどこか新鮮味さえ感じてしまいます。

豊臣秀吉の用いた家紋

 
豊臣秀吉

さて、ここで秀吉が用いていた家紋について少しご紹介しておきましょう。秀吉が家紋として重用していたのは「桐の家紋」でした。桐の入った家紋は、元はと言えば「天皇家が使用していた紋章」でした。

「室町時代や戦国時代には、朝廷が功績のある武家に桐紋を褒美として下賜する」という習わしがあったために、この家紋は朝廷から室町将軍家の足利家に与えられたのですが、15代将軍の足利義昭が織田信長に与え、さらには信長が秀吉へと桐紋を授けたために、彼が「五三の桐紋」を使い始めるようになったのでした。この桐は「中国では伝説の霊鳥である鳳凰が留まる木と言われる、聖なる植物」とされ、「桐紋は格の高い家紋として扱われ」てきました。桐紋に関して秀吉は、自らがデザインした「太閤桐紋」も用いています。

また、信長から「五三の桐紋」を与えられる前には、「沢瀉紋」という家紋を用いていた時期もありました。この「沢瀉」とは、「水草の一種」で「葉の形状が矢じりに似ており、矢が突き刺さる様子が連想されることから「勝い草」(かちいくさ)として、縁起の良い植物」とされていると言います。

豊臣秀吉の残した言葉

秀吉は、辞世の句 (死を前にして遺される、和歌や俳句、漢詩などの短文)として、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」という一句を残しています。この歌は「私の身は露のように儚く消えた、大阪での栄華も夢のようだった」という意味になるものですが、死にゆく自分を「霧」とたとえ、その栄華も「夢のまた夢」とまで言ってしまう儚さには、なんとも情感をそそられます。

豊臣秀吉にまつわる日本の観光地

最後に、秀吉の生涯をたどるにふさわしい、現在まで残る日本の観光スポットを二つご紹介してこの記事を閉じることにしましょう。この記事をここまでお読みになって、秀吉という人物に興味を持たれた方は、ぜひこれらのスポットを訪れて、秀吉の生涯を少しでも体感してみてください。

大阪城

まずご紹介したいスポットは、大阪城 です。秀吉は、1583年から二年がかりで大阪城を築いています。現在の天守閣は当時のものではなく、1931年になって復興されたものですが、1997年には国の登録有形文化財となっています。

👉【名城シリーズ】日本三大名城:名古屋城、大阪城、熊本城

豊國神社

豊國神社

もうひとつのスポットは、愛知県名古屋市にある「豊國神社」です。秀吉公を祀った神社として知られるこの神社は、全国から参拝者が訪れます。天下統一を果たした豊臣秀吉に思いを馳せつつ、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

Index

Recommend