「織田信長」の生涯と名言。何をした人?どんな性格?

織田信長 岐阜城
@兼子嘉次

日本のメディアで「好きな偉人は?」というアンケートが行われたら?おそらく上位にランクインする常連メンバーのひとりに、織田信長(1534-1582)がいます。彼は日本の戦国時代、安土桃山時代に活躍した戦国武将のひとりです。現代においても、映画やドラマ、歴史小説で描かれるのはもちろんのこと、人気のマンガ作品にもたびたび魅力的なキャラクターとして登場するなど、まさにカリスマ的な人気を誇る存在です。今回の記事では、そんな日本史上空前のカリスマである彼の生涯に、彼が成し遂げたこと、彼自身の人物像、用いていた家紋、そして名言から迫っていきます。

※記事で紹介した商品を購入したり予約をしたりすると、売上の一部がFUN! JAPANに還元されることがあります。

👉織田信長に関する書籍を読む(Yahoo! ショッピング)

織田信長の生涯:若い頃、成し遂げた偉業、その最期

織田信長 生涯 偉業

織田信長は今から500年近く前、西暦1534年に尾張国(現在の愛知県)に織田信秀の子として生まれました。1582年に没するまでの彼の生涯を、まずは〈若いころ〉〈生涯の偉業〉〈最期〉の三つに分けてご紹介します。

信長の若い頃:「大馬鹿者(大うつけ)」と言われた理由

織田信長

若い頃の信長に関するエピソードは、「信長のそばに仕えた家臣」の太田牛一が記した『信長公記』という史料に残されています。その書籍によれば、「若いころの信長は風変わりな服装をしていた」とされ、以下のような「見苦しい振る舞い」に関する記述がこの史料に見られるといいます(56〜58ページ)。

町をお通りの時、人目をも御憚りなく、栗・柿は申すに及ばず、瓜をかぶり食いになされ、町中にて立ちながら餅を参り、人に寄り掛かり、人の肩につら下がりてより外は御歩きなく候。そのころは世間公道なる折節にて候間、「大うつけ」とより外に申さず候(町を通る時は、人目も憚らず、栗や柿はもちろん、瓜も齧りつき、町中で立ちながら餅も食べ、人に寄り掛かり、歩く時はその肩にぶら下がってしか歩かなかった。そのころは世の中が礼儀正しい時だったので、「大馬鹿者」としか言われなかった)『信長公記――戦国覇者の一級史料』(和田裕弘著、中央公論新社、2018年)

人目も憚らず、街中で食べ物に齧りついてしまうとはなかなか大胆で、あまつさえ礼儀の正しさが求められる世の中であればこそ、傍目に見て彼が「大馬鹿者」と評されてしまうのは、無理もないかもしれません。

信長生涯の偉業:桶狭間の戦い、室町将軍追放、長篠の戦い

織田信長 桶狭間の戦い
©okehazama hozonkai

1552年に父・信秀が亡くなった後、信長は織田家を継ぐことになります。1560年には、駿河国(静岡県)、遠江国(静岡県)、三河国(愛知県)で当時勢力を振るっていた武将・今川義元が、尾張国に攻め込んできました。ところが、桶狭間山という小高い丘の上に休んでいた今川軍を、織田軍はわずかな軍勢で襲い、なんと今川義元の首を取ってしまいます。1560年5月19日のこの戦いは「桶狭間の戦い」と呼ばれ、この勝利によって信長の名は全国に知られるようになりました。

1568年には信長は、足利義昭を伴って京にのぼります。この義昭という人物は、父に室町幕府12代将軍、兄に13代将軍をもつ人物でしたが、いとこの義栄が14代将軍となったことに不満を抱いていました。力のある大名を味方に自分が将軍になることを目論んだ義昭は、やがて実際に15代将軍となりますが、信長は将軍の権力を利用して政治の実権を握ります。1573年、戦いで義昭を降参させると信長は義昭を京から追放し、室町幕府を滅ぼしてしまうのです。

また1575年、(後に江戸幕府を開くこととなる)徳川家康が支配していた城が包囲されると家康は信長に助けを求めました。戦場に着くと信長は三重の柵を用意し、戦いでは三列に分けた鉄砲隊を三段構えで配置することで見事、相手方の騎馬軍団を破ることとなりました。この戦いは「長篠の戦い」と呼ばれています。

※以上、本節の内容は主に『織田信長 ――戦国の世をかけぬけた武将――(よんで しらべて 時代がわかる ミネルヴァ日本歴史人物伝)』(小和田哲男監修、西本鶏介文、広瀬克也絵、ミネルヴァ書房、2010年)の22〜25ページの内容を参考にしました。

👉織田信長に関する書籍を読む(Yahoo! ショッピング)

信長が迎えた最期:本能寺の変

岐阜公園 織田信長像

しかし、そんな信長の快進撃も突然の終幕を迎えます。すなわち、それは信長が自害へと追い込まれたためで、この事件は「本能寺の変」と呼ばれています。

1582年、中国地方を支配していた毛利氏を攻めるために備中国(岡山県)に向かっていた信長は途中、京都の本能寺に立ち寄ります。しかしそこで家臣の明智光秀からの裏切りに遭い、ここで自ら命を断つことになるのです(『織田信長 ――戦国の世を駆け抜けた武将――』25ページ)。「光秀が信長を裏切った叛旗を翻した理由については、未だに不明な点が多い」と書かれ、”日本史史上の最大のミステリー”ともされています(渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』筑摩書房、2019年、7ページ)。

「ミステリー」と称されていることからもお分かりのとおり、光秀とこの「本能寺の変」は、これまで多くの論者が取り上げてきた論争的なテーマです。この記事ではこの話題について、これ以上踏み込んだ議論は行いませんが、興味のある方は図書館などで「本能寺の変」について書かれた書籍を繙いてみてください。

「本能寺の変」後に起こったこと:中国大返し、山崎の戦い

こうして「本能寺の変」で信長を討った明智光秀でしたが、その後に彼がたどった道のりは不運なものでした。このとき毛利氏と対峙していた信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、信長が討たれたとの一報を受けると、今度は光秀を討つために京都を目指す「中国大返し」を敢行します。

秀吉軍と光秀軍は山崎(京都府大山崎町)で衝突します(山崎の戦い)が、光秀はこの戦いで敗走、最期は農民による落武者狩りに遭って命を落とします(『明智光秀と本能寺の変』253〜274ページ)。信長の描いた「天下統一」の夢はこののち、秀吉に引き継がれていくこととなりました(『織田信長 ――戦国の世をかけぬけた武将――』25ページ)。

織田信長の人物像:フロイスの記述から読み解く

@古川博(hiro.f35)

話をふたたび信長に戻しましょう。信長の人物像については、キリスト教の宣教師だったルイス・フロイス(1532-1597)による記述が現在まで伝えられています。以下、信長からの寵愛を受けたという、このフロイスが見た信長像を、少し長くなりますが引用しておきます。

彼は中くらいの背丈で、華奢な体軀であり、髯は少なくはなはだ声は快調で、きわめて戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは愛敬と慈愛を示した。彼の睡眠(時間)は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘し、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昻はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、(人の)取扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王候を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主(に対するように)服従した。(松田毅一、川崎桃太編訳『回想の織田信長 フロイス「日本史」より』中央公論社、1973年、2〜3ページ。引用中の『彼』は信長を指す)

信長の〈絶対君主のような畏敬の対象〉というイメージは、おおむね現代の、信長ものの映像作品でも踏襲されているように思えます。しかし、その一方で、彼がその生涯のうちに成し遂げたことの大胆さや豪快さからすれば、体は華奢で、酒を飲まないという記述は、意外なものかもしれませんね。フロイスの残したこの記述は、果たして皆さんが思い描く〈信長像〉にマッチしたものだったでしょうか。

織田信長の用いた家紋

織田木瓜

ちなみに、織田信長が用いた家紋は、以下の七つが知られています。ごく簡単にそれぞれの紋の由来を確認してみましょう。

  • 織田木瓜:「織田家を代表する紋」として知られ、信長の父・信秀が主君から与えられたもの。
  • 揚羽蝶:平清盛が使用していた紋で、「織田家は平家の末裔と名乗るために」用いられたもの。
  • 五三の桐:「信長公記」によると京都へ上った信長が、「足利義昭を幕府の将軍に奉じた恩賞として与えられた」もの。
  • 丸に二つ引両:信長が義昭から与えられた「足利一族が使用していた紋」で、「足利家が手にした尊崇と富貴の象徴」とされる。
  • 永楽通宝銭:「室町時代から江戸時代初期に流通していた貨幣をそのまま図案化」したもので、「貨幣経済を重視していたため」に、信長が織田家の旗印に用いたとされる。
  • 無文字:「一切の煩悩から解き放たれた心理状態である「無心」」を示す「無」の一文字が描かれているもの。
  • 十六葉菊:信長が正親町天皇から拝領した名誉ある紋。

織田信長の名言

織田信長 能

織田信長の名とともに語られる有名な言葉として、次のものがしばしば挙げられます。

人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。(半藤一利『名言で楽しむ日本史』平凡社、2010年、120ページ)

この言葉の意味は、「人のいのちはせいぜい五十年、天人のすむ下天にくらべらば、ゆめやまぼろしのようにはかない。生まれたからには死ぬのがあたり前だ」というものでした。実はこの言葉、幸若舞(「武士の世界を取り上げた物語が特色の芸能の一種」)の「敦盛」に由来するものです。前述の「桶狭間の戦い」前夜、出陣を前に「敦盛」を舞ったとされています(『織田信長 ――戦国の世をかけぬけた武将――』23、31ページ)。

👉織田信長に関する書籍を読む(Yahoo! ショッピング)

織田信長にまつわる日本の観光地

ここまで、戦国武将・織田信長の生涯について、成し遂げた偉業、人物像などいくつかの観点から確認してきました。最後に、今日にも訪れることのできるゆかりの地を二つご紹介します。この記事を読んで、信長に興味をもった方、そのゆかりの地をぜひ自分の足で踏みしめたいという方は、ぜひ現地で信長の生涯を辿ってみてもいいでしょう。

安土城(滋賀県近江八幡市)

織田信長 安土城跡
©︎ Biwako Visitors Bureau
資料館:©︎ Biwako Visitors Bureau

一つ目にご紹介するのは、信長が築いた城「安土城」です。残念ながら安土城の建物自体は現存していませんが、付近には安土城をテーマとした資料館が整備されています。

🏰【日本100名城シリーズ】日本初の高層建築・天守を織田信長が築き上げた滋賀県「安土城」

[kkday]👉滋賀 おすすめのレジャー・体験アクティビティ・遊び・観光情報

「本能寺」(京都府京都市中京区)

信長ゆかりの地としてもう一つご紹介したいのは、信長がその最期を迎えた地「本能寺」です。現在本能寺が建つ場所は、実際に「本能寺の変」が起こった場所とは異なります(実際に「本能寺の変」が起きた場所には現在、石碑が建立されています)。現在の本能寺には、織田信長所蔵の茶道具類や書状、信長に危険を知らせたという唐銅香炉「三足の蛙」などの名品があり、大賓殿宝物館が公開されているほか、「織田木瓜」のあしらわれたお守りが授与されています。

[kkday]👉京都 おすすめのレジャー・体験アクティビティ・遊び・観光情報 

[klook]👉京都でのガイド付き博物館ツアー付き侍と忍者の体験

Index

Recommend