『SHOGUN』モデル、徳川家康の生涯と名言。江戸幕府を開いた偉業はいつ?

日本の歴史を語るときに決して欠かせない、まさに一時代を築いた人物のひとりに徳川家康(1542-1616)がいます。2024年のエミー賞を総なめしたドラマ『SHOGUN 将軍』で、主演の真田広之が演じる吉井虎永は、徳川家康にインスパイアされた武将です。ドラマを観て、徳川家康がどんな人物か、改めて興味を持った人も多いのではないでしょうか。今回は、徳川家康の生涯と功績、性格、名言を紹介します。

『SHOGUN』吉井虎永のモデルになった「徳川家康」とは?

(C) SURUGA Marketing & Tourism Bureau

日本の戦国時代、安土桃山時代に戦国武将・織田信長が掲げ、その後を継いだ豊臣秀吉が成し遂げた天下統一(内乱が終わって一つの大きな国家ができること )を目指すプログラムを、江戸幕府を開くという形で完成させ、日本史上類を見ない、平和で安定した時代の礎を築いたのは、この家康でした。この天下統一のプロセスを「餅づくり」に喩えて、こんな俳句が読まれています。

「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに 食うは徳川 」

※織田信長が餅をつき、ついたその餅を羽柴(豊臣)秀吉がのし、出来立ての餅を何もしなかった徳川家康が座ったまま食べた 」という意味

徳川家康の生涯

家康行列(愛知県岡崎市)

まずは家康がたどった生涯について、順を追って見ていくことにしましょう。以下、彼の生涯については、『徳川家康 ――江戸幕府をひらいた将軍――(よんで しらべて 時代がわかる ミネルヴァ日本歴史人物伝)』(大石学監修、西本鶏介文、宮嶋友美絵、ミネルヴァ書房、2010年)でまとめられている内容を紹介します。

徳川家康の幼少期から青年時代:他の大名家の人質

徳川家康は1542年、三河国(愛知県)の大名の松平家の長男として、岡崎城で生まれました。当時、この松平家は東を今川家、西を織田家という力のある大名に囲まれていたこともあり、6歳からは織田家、8歳からは今川家の人質として子ども時代を過ごすこととなります。

そんな家康に転機が訪れるのは、19歳の頃のことでした。「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に敗れると、家康は今川家から離れ、人質生活を終えることとなったのです。こののち1562年の正月には、家康は信長の住まいの清洲城(愛知県)で同盟を結び、1566年には姓を松平から徳川に改めることとなりました。

徳川家康が江戸幕府を開く:豊臣秀吉との争い、関ヶ原の戦い

江戸城の城址が残る皇居 (C)TCVB

「天下統一」を目指す織田信長が1582年、「本能寺の変」によって家臣の明智光秀に攻められて自害すると、今度は同じく家臣の羽柴(豊臣)秀吉がこの明智光秀を破り、豊臣秀吉が織田信長の後を引き継ぐこととなります。1584年には、家康と秀吉との間で「小牧・長久手の戦い」が起こっていますが、戦いは決着がつくことなく家康は秀吉と和解、秀吉に従うことを誓いました。1590年には、秀吉に与えられた新しい領地の江戸(現在の東京都)、江戸城へ入ることとなります。

天下統一を果たした秀吉は1598年に亡くなります。秀吉の没後、後継ぎである秀頼を盛り立てて実権を握ろうとする石田三成と家康が敵対すると、1600年には“天下分け目”とも称される「関ヶ原の戦い」が起きます。全国の大名が家康側の「東軍」と三成側の「西軍」に分かれて戦ったこの戦いは、家康側の東軍の勝利に終わりました。

徳川家康の晩年:江戸幕府を開く

駿府城(静岡県) (C) SURUGA Marketing & Tourism Bureau

関ヶ原で勝利を収めた家康は、1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開きました。将軍になると、江戸を将軍に相応しい城下町にするため大名たちに号令をかけています。海・湿地の埋め立てが行われ、大名たちの屋敷が江戸城周辺に建てられたことで、江戸は巨大都市へ変貌を遂げました。また1604年からは、東海道などといった道路の全国的な整備を始めました。街道に宿場町を作ったほか、治安を守るための関所で通行人を厳しく調べました。

1605年には、三男の秀忠に将軍職を譲って、家康自身は駿府城(静岡県)で「大御所」としての実権を握ることとなりました。ただ、豊臣秀頼に将軍職を乗っ取られる不安から家康は、1614年の大阪冬の陣、1615年の大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼしています。また、この大阪夏の陣後、「全国の大名は自分のくらしている城をのこし、ほかはとりこわすこと」とした「一国一城令」や、大名たちが守らなければならない決まりの「武家諸法度」など、家康はさまざまな決まりを作っています。

徳川家康の死:晩年も続く江戸幕府の統治システム

家康がこの世を去ったのは1616年、彼が75歳のときのことでした。息子の秀忠が将軍職を継いだのちも十五代将軍・慶喜の時代、1868年の明治維新に至るまで265年もの間、「徳川の時代」は連綿とつづいてゆくことになりました。ちなみにこの1868年から数えて、2024年はせいぜい165年目です。265年もの間つづいた江戸幕府の統治システムが、いかに安定的で完成されたものだったかが、このことからもお分かりいただけるのではないでしょうか。

徳川家康の人物像:健康、芸能への嗜好

つづいて、家康の嗜好や人物像について確認してみることにしましょう。『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(本多隆成著、中央公論新社、2022年) によれば、家康は「無類の鷹狩り好き」であったとされています。ちなみに「鷹狩り」とは「飼いならした鷹や隼を放して鳥や小獣を捕らえる狩猟」(『スーパー大辞林』)のことですが、ここでは「遠方へ出かけて野山を駆け巡ることにより、身体が頑健になり、健康の増進を図ることができた」とされています。

また、健康に関連して言えば、家康は、自ら製剤し、自らの指示で製剤した薬を大名たちに分け与えていたといい、家康の薬の知識や製剤・調合の技術は、素人の域をはるかに超えるものであったとみられています。

このほかにも能や狂言を愛好し、「無類の囲碁好きであった」と言われるなど、家康の芸能に対する造詣の深さも今日まで伝えられています。

徳川家康の家紋

徳川家康が家紋として用いていたのは「三つ葉葵紋」と呼ばれるものです。葉脈が描かれた葵の葉を3枚、バランス良く配置したこの家紋は「徳川家の象徴」、および家康が征夷大将軍となり天下を治める将軍家の家紋として、権威の象徴ともなった家紋です。

ちなみにこの「三つ葉葵紋」は、「二葉葵紋」という京都の「上賀茂神社の神紋」が原型とされています。また、戦国時代の武将は、家臣の戦功の褒美に家紋を与える習慣があったということですが、家康は、葵紋を徳川家のみとし、無許可で使用しないよう厳しく制限しています。実際に八代将軍の徳川吉宗は、1723年に「葵紋禁止の法令」で、無断使用や粗末に扱うことを厳しく禁じていました。

徳川家康の名言(とされているもの)

徳川家康の残した名言と伝えられている有名なものとして、「東照宮御遺訓 」と呼ばれる言葉があります。

以下、『江戸時代の古文書を読む ――家康・秀忠・家光』から、その内容を引用しておきましょう。

「人の一生は、重荷を負いて遠き道を行くが如し、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なし、こころに望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ、勝つ事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其の身にいたる、おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり」『江戸時代の古文書を読む ――家康・秀忠・家光』(公益財団法人徳川黎明会 徳川林政史研究所監修、竹内誠・深井雅海・太田尚宏・白井孝胤著、東京堂出版、2012年、29ページ)

現代の言葉で表すと、この「御遺訓」の以下のような意味になります。

「人の一生は、重い荷物を背負って長い道のりを歩いて行くようなものであるから、決して急いではならない。不自由な状態をいつものことと思えば、不足すると思うこともない。心に欲望が芽生えたら、困窮したときのことを思い出すがよい。堪え忍ぶことは無事長久の根源であり、怒りは敵と思え。勝つことばかりを知って、負けることを知らなければ、その害は我が身に降りかかってくる。自分を責めて、人を責めるなかれ。足りないと思うぐらいのほうが、過分であることよりも勝るのである」『江戸時代の古文書を読む ――家康・秀忠・家光』(公益財団法人徳川黎明会 徳川林政史研究所監修、竹内誠・深井雅海・太田尚宏・白井孝胤著、東京堂出版、2012年、38〜39ページ)

人質として囚われの身にあった子ども時代。そしてその後も、天下を虎視眈々と狙いながらも決して焦ることなく、機が熟すのをしっかりと待ちつづける姿勢。時間はかかっても着実な歩みで、征夷大将軍となって幕府を開き、太平の世を築き上げた徳川家康の、まさに忍耐の精神が滲み出た、なんとも含蓄のある言葉――と言いたいところですが、そう言い切るには注意が必要です。

前述の『江戸時代の古文書を読む』によれば、この「御遺訓」は「徳川光圀作として伝聞されていた「人のいましめ」の教訓文を、後世一部改め「東照宮御遺訓」と改題して、流布させたもの」、すなわち別の人物作とされる教訓が家康の「御遺訓」にされてしまったようなのです。

徳川家康にまつわる日本の観光地

ここまで、徳川家康の一生について、その人物像や家紋などと併せてお伝えしてきました。記事の最後に、そんな家康の生涯にまつわる日本の観光地を3つ紹介します。今回の記事を読んで、徳川家康に興味を持たれた方は、ぜひ現地を訪れてみてください。

久能山東照宮 (静岡静岡市)

(C) SURUGA Marketing & Tourism Bureau

この神社は徳川家康公を祀ったお社で、遺言により埋葬された久能山に、江戸幕府二代将軍の秀忠の名によって創建された神社です。御社殿が江戸初期の代表的建造物として国宝に指定されているほか、出世、健康長寿、学業など家康公にちなんださまざまなお守りが授与されています。

皇居東外苑 (東京都千代田区)

(C) TCVB

現在では天皇一家のお住まいとなっている皇居ですが、かつては幕府の歴代将軍が居住した江戸城でした。特に東御苑は「江戸城の中心部分」が置かれていた場所でしたが、現在では庭園として整備され、一般に公開されています。御影石で築かれた「天守台」や、将軍が富士山や花火大会を眺めたと言われる「富士見櫓」などが現在も苑内に残されています。

日光東照宮 (栃木県日光市)

徳川家康を御祭神に祀る神社です。国宝に指定されている「陽明門」や「眠り猫」の彫刻、重要文化財「神厩舎」の「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名です。社殿群は1999年に世界文化遺産に登録されました。

Index

Recommend