「日本画」は、文字通り「日本の画」を指す絵画です。では、この言葉が指す「日本の画」には、一体どんなものが含まれるのでしょうか。日本で描かれた絵ならば何でも「日本画」なのでしょうか。日本人が描いたものは何でも「日本画」とみなしてよいのでしょうか。それとも、いかにも日本の伝統的なものを題材とするものだけが「日本画」と言えるのでしょうか。本記事ではその概念や定義、そして代表的な日本画家や日本画を鑑賞できる美術館を紹介していきます。
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「日本画」の概念・定義
日本語の辞書『広辞苑 第七版』(新村出編、岩波書店、2018年)を引いてみると、「日本画」の項には、以下のような記述を見つけることができます。
「明治以後にヨーロッパから入った西洋画に対し、日本在来の技法・様式に基づいて明治時代に創出された絵画を指す語。墨や岩絵具を主として、若干の有機色料を併せ用い、絹・紙などに毛筆で描く」
日本の歴史に詳しい人ならばすぐ分かる通り、ここでいう「明治時代」とは、西暦1868年の明治維新以来40年以上つづいた時代を指すものです。この解釈をとるとすれば、この「日本画」という概念は、意外なことに19世紀半ばに成立したという、日本の歴史から言えば、比較的まだ日の浅い概念であることが見えてきます。
今回の記事では、この「日本画」というものについて、その概念の成立、特徴、その素材といった観点からご紹介してまいります。この記事を準備するにあたって、いくつかの資料に目を通してきましたが、論者や文献によってこの「日本画」という語で指し示されるもの(含まれる範囲)に、若干の揺れがあることが判明しました。
現状、まさに「日本画概念を広く捉えようとする傾向と、限定的に捉えようとする傾向が混在している」(古田亮『日本画とは何だったのか 近代日本画史論』KADOKAWA、2018年)のは間違いないようです。
本記事では、特にことわりのないかぎり、先の辞書からの引用に即して、「日本画」の概念は近代になってから成立したものと解釈します。この定義ひとつとっても論争的な主題であるという手前、ここではそれぞれに議論について、細かい内容まで踏み込めないことをあらかじめご了承ください。
「日本画」概念の誕生:フェノロサによる講演
まずは、明治期の日本で「日本画」という概念が誕生に関する出来事を整理しておきましょう。前掲の『日本画とは何だったのか』によると、「洋画あるいは油絵の対概念として「日本画」という美術用語が使われた最初の出来事」は1882年(明治15年)5月、アーネスト・F・フェノロサ(1853-1908)という一人の外国人による「美術真説」と題する講演でした。このフェノロサという人物は当時、西洋哲学を(日本へと)移植するためにやってきた、いわゆる「お雇い外国人」の一人でした。この講演は英語によるスピーチを通訳したものでしたが、のちに日本語訳が刊行された際、「Japanese painting」に対する翻訳語として「日本画」という語が登場したのです。
ちなみに、フェノロサはこの講演で「西洋画の写実性や構築性以上の美点を日本画に見出そう」とします。フェノロサがこの「日本画」という語で指し示したかったのは、「油絵に対する日本固有の画の総称」、「様式は問わず伝統的な技法・材料で描かれたもの全般」のことだったようです。
「日本画」の表現の特徴:西洋画との相違点
このような出自が確認できる「日本画」概念ですが、やがて「「日本画」という語は明治20年代の初頭には、問題を含みながらも、かなり一般化していたらしい」(北澤憲昭「「日本画」概念の形成に関する試論」『増補改訂 境界の美術史 「美術」形成史ノート』筑摩書房、2023年、197-300)と見られています。さて、古田亮『視覚と心象の日本美術史 作家・作品・鑑賞者のはざま』(ミネルヴァ書房、2014年)では、明治20年代以降の日本画表現の展開を次のように分析しています。
「日本画の形成に欠かせない表現上の問題は、「前日本画」から引き継いでいる写実的傾向である。近代日本画は、狩野派や円山派をはじめとした伝統画派の表現に写実的な要素を加えたことにはじまった。そして、フェノロサの理論から引き継がれ、東京美術学校、日本絵画協会(いわゆる新派)の画家たちが実際に行った表現の改良とは次のようなものである。まず、線については現実的でない強く太い線の制御。色彩については色数の獲得とグラデーション表現。そして陰影法や遠近法を取り入れた三次元表現。構図においては、遠心的なあるいは多視点的なものから、一点透視法的な求心性のある表現への移行。これらによって、西洋画が前提としている客観的な事物空間表現、すなわち写実的表現を日本画で実現しようとしたのである」
ただしこの、明治20年代の日本画界の「線」や「写実的表現」といったものへの着目は、30年代に入るとまた一変し、無線描法への着目や、写実から装飾への転換といったことが起こったと言います。
さて、「日本画」の特徴に関しては、西洋画(洋画)との比較で考えてみましょう。古田亮『視覚と心象の日本美術史』によると、それぞれの標準的作品と言えるものから材料や外見的な特徴で区別するとき、次のように比較対照することができるようです(同書にまとめられた表からいくつか抜粋します)。
すなわち、作品の支持体(絵画を支えるもの)について、「キャンバスを採用する洋画に対し、日本画では絹や紙が採用される」、作品の形式について、「額を用いる洋画に対し、日本画では軸や屏風、巻物という形式をとっている」、そして作品の主題に関して、「裸婦や風景、人物を取り上げる洋画に対し、日本画では花鳥や山水、美人が取り上げられている」といったことなどです。
日本画制作の際に用いられる素材たち
ここからは少し視点を変えて、日本画制作の際に用いられる材料について確認していくことにしましょう。本節では、『「よみがえる日本画―伝統と継承・1000年の知恵―」図録』(東京芸術大学大学院美術研究科文化財保存学日本画研究室編、東京芸術大学大学美術館協力会、2001年)の内容からご紹介してまいります。
長い歴史をもつ絵画様式としての日本画(『よみがえる日本画』で「日本画」は、「千数百年の歴史」をもつ、という広い意味をもった概念としてとらえられています)は、紙(和紙)や絹、木などに描かれていると言います。日本画で用いられている天然絵具には、「鉱物や岩石を砕いたもの」、そして「動植物から得たもの」があります。
このうち「鉱物を砕いた絵具」は「天然岩絵具」と呼ばれます。天然岩絵具は粒子が細かくなる(番数が上がる)ほど色が淡くなると言います(一例を挙げると、群青は藍銅鉱を砕いたものから作られているということです)。一方、「動植物から得た色素」は「染料」と呼ばれています(たとえば、黄系の染料である「藤黄はガンボージという植物から」得られるものです)。ただし現在では、有毒性や産出量が少ないといった理由で入手困難なものの場合、人工的に作った絵具が用いられることもあると言います。
この他にも日本画の画材として幅広く用いられているというのが「胡粉(ごふん)」です。最高品質のものでは「天然産のいたぼ牡蠣の貝殻」から製造されるというこの絵具は、「白としての色材」にとどまらず、下地として、あるいは花びらを立体的に盛り上げて描くために用いられていると言います。
そして絵具とともに用いられているのが、「膠(にかわ)」と呼ばれる接着剤です。というのも、岩石を砕いたものや土を精製したものである日本画の絵具それ自体には、油絵や水彩画の場合のように、接着力がないのです。このために用いられる膠は、「獣や魚の皮や骨などのタンパク質を煮て取り出したゼラチン」のことで、現在でも「家具などの接着」に用いられているとのことです。
代表的な日本画家たち:大観、松園、魁夷
さて、ここからは近代以降の日本画について、代表的な作家をごく一部ですがご紹介していきましょう(本節では以下、古田亮監修『見かたがわかればもっと面白い! 日本絵画の教科書』(ナツメ社、2023年)および糸井邦夫監修、伊野孝行イラスト、工藤美也子著『教科書に出てくる日本の画家 ②日本画家 〜横山大観、東山魁夷、上村松園ほか〜』(汐文社、2013年)の内容をもとにご紹介します)。
横山大観
最初に紹介するのは、「日本画界をリードし続けた巨匠」として知られる横山大観(1868-1958)です。東京美術学校に21歳で入学した大観は岡倉天心(フェノロサとともに美術学校設立に奔走し、開校後に校長を務めた人物です)と出会い、才能を磨くこととなりました。
代表作のひとつである『無我』は大観が29歳の時に制作されたもので、ブカブカの着物に大人の草履という出で立ちの子どもに「無心で欲がなく、悟りを開いた境地」を表現しています。「日本画に新しい可能性を求め続けた」という大観は。「朦朧体」と呼ばれる「線を使わずに表現する」革新的な技法や、古典的手法に大胆に取り組むことで、日本画界をリードしていきました。
上村松園
次に紹介する上村松園(1875-1949)は、「美人画で女性日本画家の頂点」に立った存在として知られています。12歳で京都府画学校に入学したという松園ですが、15歳のときに博覧会に出品した作品がなんと(当時来日中だった)イギリスの王族に買い上げられる、というデビューを飾ることになりました。代表作として知られる『序の舞』(重要文化財)は、「舞を稽古事としている上流階級の女性」を描いた、松園のみならず美人画の代表作としても名高い作品です。のちに女性として初の文化勲章を受章しています。
東山魁夷
三人目に紹介するのは、「国民的日本画家」と呼ばれた東山魁夷(1908-1999)です。東京美術学校の時代から優秀な学生であったという魁夷ですが、その実力が発揮されたのは第二次大戦後のことであったと言います。数々の受賞歴だけでなく、「東宮御所や皇居などの障壁画」を制作したほか、奈良県にある唐招提寺の障壁画、ふすま絵に10年を費やすなど、大きな仕事も手がけた画家でした。
「日本画」を鑑賞できる国内のスポット
「日本画」を国内で鑑賞することのできるおすすめスポットをご紹介します。各地に点在するそれぞれの美術館でも、日本画の作家やそれぞれの流派にフィーチャーした展覧会がしばしば開催され、場合によっては国内の美術館を巡回することもあります。お気に入りの作家や気になった画風の流派がいれば、インターネットから展覧会の開催情報を確認してみてください。
東京国立近代美術館(東京)
まずご紹介するのは、東京都千代田区(北の丸公園内)に位置する東京国立近代美術館です。ここでは、「19世紀末から今日に至る日本の近現代美術のながれ」を紹介するという所蔵作品展の「MOMATコレクション」では、年5回程度の入れ替えとともに常時200点ほどの展示が行われているとのことです。中には「日本画」ジャンルに特化した部屋も用意されています。
- 住所:東京都千代田区北の丸公園3-1
- アクセス:東京メトロ東西線 竹橋駅から徒歩約3分
- 開館時間:10:00~17:00(金・土曜は10:00~20:00)
- 企画展は、展覧会により開館時間が異なる場合があります。いずれも入館は閉館30分前まで。
- 定休日:月曜日(祝休日は開館し翌平日休館)、展示替期間、年末年始
足立美術館(島根)
つづいてご紹介するのは、島根県安来市にある足立美術館です。この美術館は、アメリカの日本庭園専門誌によるランキングで21年連続日本一となった、美しい日本庭園をもつことで世界的にも知られています。しかしそればかりでなく、横山大観をはじめとする総数2,000点を所蔵するコレクションをもつ美術館としても知られ、大観だけでもその点数は120を数えると言います。
- 住所:島根県安来市古川町320
- アクセス:JR安来駅より無料シャトルバスで約20分
- 開館時間:4~9月:9:00~17:30、10~3月:9:00~17:00
- 定休日:年中無休
松伯美術館(奈良)
奈良県奈良市にある松伯美術館は、先に紹介した上村松園、松園の子である松篁、そしてその松篁の息子である淳之の三代の画業を紹介する美術館として知られています。上村松園の代表作のひとつ『花がたみ』もこの美術館の所蔵となっています。
- 住所:奈良市登美ヶ丘2丁目1番4号
- アクセス:近鉄奈良線「学園前駅」北口バスターミナル5・6番のりばよりバスで約5分 「大渕橋(松伯美術館前)」下車、大渕橋を渡った右側
- 開館時間:10時〜17時(入館は16時まで)
- 定休日:月曜日(祝日となるときは、次の平日)、年末年始、展示替期間、その他必要のある場合
長野県立美術館(長野)
最後に長野県立美術館(長野県長野市)をご紹介しましょう。この美術館には、1990年に開館した東山魁夷館が併設されています。970余点を収蔵するというこの施設では、二ヶ月に一回のペースで展示替えが行われているそうで、東山魁夷の作品世界を堪能することができます。
- 住所:長野県長野市箱清水1-4-4(城山公園内・善光寺東隣)
- アクセス:
- 1. JR長野駅善光寺口バス乗り場①から、アルピコ交通バス 11系統 善光寺経由 宇木行、16系統 善光寺・若槻団地経由若槻東条行、 17系統善光寺・西条経由若槻東条行で「善光寺北」下車 (所要 時間約15分)。バス進行方向徒歩約3分。
- 2. 長野電鉄「善光寺下駅」下車、城山公園へ徒歩約15分。
- 開館時間:9:00~17:00(展示室入場は16:30まで)
- 定休日:毎週水曜日(原則、水曜日が祝日の場合は翌平日)、年末年始
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