『逃げ上手の若君』北条時行の生涯。何をした人?何歳で死んだ?


『逃げ上手の若君』北条時行の生涯。何をした人?何歳で死んだ?
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2024年7月期から放映されているTVアニメ『逃げ上手の若君』(原作は『週刊少年ジャンプ』連載中の漫画作品)が、にわかに注目を集めています。放映開始直後からSNSで大きく話題となったためご存じの方が多いかもしれませんが、この作品は北条時行(?〜1353 ※1)というひとりの実在人物を主人公とした作品です。※1 本郷和人『北条氏の時代』文藝春秋、2021年、290ページ

日本の歴史に親しんだ人ならば、この「北条」という名字から「きっと時行も鎌倉時代、もしくは戦国時代に活躍した歴史上の人物なのかな」というところまでは連想できるでしょう。しかしきっと、彼が生涯のうちに何を成し遂げたか、というところまで答えるのは難しいはずで、少なくとも「中先代の乱」を起こした……と即答できる人は少ないのでは。

今回の記事では、そんな歴史上の人物としての北条時行について、現在まで伝わる文献などをもとにその生涯を紹介していきます。

本記事はアニメ・原作漫画のネタバレにつながる記述があります。本記事をお読みになる際は十分にご注意ください。

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北条時行の生涯:鎌倉にかけた人生と「中先代の乱」

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それでは、北条時行がたどった生涯について、主に鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』(中央公論新社、2021年)の解説をもとにご紹介していきましょう。ちなみに「鎌倉幕府」は、12世紀終わりごろに源頼朝が開いた、将軍と主従関係にある武士たち(御家人)による政権のことを言います。1192年に頼朝は「征夷大将軍」となりますが、源頼朝の妻・北条政子の弟であった北条義時は、のちに幕府の行財政の長官、および軍事を司る長官を兼ねる「執権」として幕府での権力を得ます。そしてこれ以降、この執権職は「代々北条氏のみが世襲する職」となってゆくのです。

時行の生い立ち:推定される誕生時期と幕府滅亡

北条時行は、そんな鎌倉幕府で執権を務めた北条高時の子どもとして生まれます。生まれた年ははっきり確定していませんが、元徳元年12月22日(1330年1月11日 )に書かれた手紙にある「太守禅閤(北条高時を指す)今度御出生の若御前」が時行のことを指すと考えると、時行はこのころ産まれたものと見ることができます(『中先代の乱』著者はこの立場に立っています)。ちなみに『逃げ上手の若君』では、時行の兄である邦時(1325年生まれ)が高時の側室が生んだ子である一方、弟の時行が高時と正室との間に生まれた子とされています。しかし、史実では父・高時と正室との間に「子どもは確認できない」(ただし「邦時と時行の母が同じであるかは不明」)とされています。

この当時、日本の天皇は後醍醐天皇という人物でしたが、討幕の計画が発覚した結果、彼は隠岐(島根県)に流されてしまいました。しかし1333年に隠岐を脱出した後醍醐天皇は、京へ向かって進軍を開始します。御家人(将軍直属の家臣 )の足利尊氏(のちの室町幕府初代将軍で、当時はまだ「高氏」と名乗っていました)は、このとき鎌倉から幕府側の援軍として派遣されますが、反旗を翻し後醍醐天皇側に味方してしまいます。また、新田義貞という人物が討幕のために挙兵し、やがて鎌倉で合戦が開始されると、時行の父・北条高時は自害に追い込まれました。結果、1333年5月22日に鎌倉幕府は滅亡に至りました。

鎌倉から逃げ延びる時行:『太平記』から

ここで、軍記物語 として今日まで伝わる『太平記』から、当時の時行に関するエピソードをご紹介しましょう。義貞との戦いに敗れて鎌倉へと戻っていた北条泰家(高時の弟で、時行の父方の叔父にあたる人物です)が北条家滅亡の危機を感じ、「諏訪大社の神官諏訪氏の一族」である諏訪盛高に、こんなことを告げます 。

(前略)おまえも遠い先のことまでよくよく考えて、どこでもいいから隠れ忍んでいるか、さもなければ降参して命を長らえ、甥の亀寿(北条高時の次男で、後の相模次郎時行)を隠しておいて、今が好機だと思ったときにふたたび大軍を催して、かねての望みを遂げるがよい。(後略)(上原作和・小番逹監修、鈴木邑訳『完訳 太平記(一)(現代語で読む歴史文学)』勉誠出版、2007年)

この「亀寿」が他でもない、北条時行のことでした。時行救出の指示を得た諏訪盛高は、高時の側室のもとへ向かいます。しかし盛高は側室たちに、時行とともに逃亡することを告げませんでした。時行が鎌倉から逃げ延びていることが人へ伝わることを恐れた盛高は、〈自害する高時の道連れになる予定の時行を迎えに来た〉と嘘をついて、泣き縋る側室や時行の乳母たちから時行を引き剥がします。時行を抱いて屋敷から去っていく盛高を追いかけようとした時行の乳母は、近くの古井戸に身を投げて死んでしまったと言います。

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こうして盛高に連れられた時行は、信濃(長野県)へと逃げ延びることとなりました。ちなみに『逃げ上手の若君』では、鎌倉での時行救出に際して活躍するのは諏訪頼重という人物です(もちろんここでも、盛高が救出に同行していた可能性はあります)。のみならず、ここでは諏訪頼重と盛高は異なる二人の人物として描かれています(盛高はのちに『諏訪大社の解説名人』として登場します)が、実際にはこの盛高と頼重の二人が同一人物 であるとする説があります。

時行が成し遂げた偉業:「中先代の乱」と鎌倉占領

やがて京に戻った後醍醐天皇は、「天皇自ら親政」を行いました(「建武の新政」と呼ばれます)。この建武政権の時代には、各地で北条氏たちによるものを含む反乱が、多発した時期でもありました。時行も1335年、「後醍醐天皇の建武政権に対し幕府再興をはかって反乱を起こし」ました――これがのちに「中先代の乱」と呼ばれる反乱です。

諏訪氏の一族に擁されて信濃で挙兵した時行は、後醍醐天皇の皇子や足利尊氏の弟・直義が守る鎌倉を占領するにまで至ります。しかし、その期間も長くは続きませんでした。京にいた足利尊氏が弟の救済のために鎌倉へと向かい、わずか20日足らずで時行たちは再び鎌倉を追い出されることとなったのです(時行たちが敗退する際、諏訪頼重は鎌倉で自害することとなりました)。ちなみに、この反乱の名前にある「中先代」とは、「北条氏を「先代」、足利氏を「当御代」(中略)と呼び、その中間にあたる時行を「中先代」と称した」ものと考えられています。

「中先代の乱」以降の時行:南朝への合流とその死

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1336年、京で軟禁状態にあった後醍醐天皇は吉野(奈良県)へと密かに脱出を試みました。彼はすでに脱出の時点で退位して上皇となっていましたが、自らの退位を認めず自分が天皇であるとしました。ここに京の北朝と、吉野に亡命した後醍醐天皇の南朝の「天皇が二人並び立つ南北朝時代が始まる」こととなりました。

この頃の時行は、「後醍醐天皇のいる吉野に向けて使者を派遣し、朝敵の北条高時を父に持つ自分を赦免して、憎むべき足利尊氏・直義兄弟の討伐に加えて欲しいと願い出た」ことが『太平記』に記されています。使者が伝えた内容 を引用しておきましょう。

亡父・高時法師は、臣下としての道をわきまえず、ついに帝からのお咎めを蒙り滅亡しました。しかしながら、天の下した罰が道理にかなうものであることを存じておりますので、この時行、塵ほども帝をお恨み申しあげるつもりはございません。(中略)そもそも尊氏が今日ありますのも、ひとえに我が北条家による優遇のおかげです。それにも拘わらず、恩を蒙りながら恩を忘れ、天が治めるこの世にありながら天に背いています。人の道、道理にはなはだしく背く行為は、世間の憎むところ、人が非難するところであります。それゆえ、我が北条家一門は敵をほかに求めることは全くなく、ひたすら尊氏、直義らに対して我が一門の恨みを晴らそうと思います。帝のお心が我々の心情を汲み取ってくださいますなら、なんとか勅免(天皇によるお許し)をいただき、朝敵征伐の計略をめぐらすようにとの綸旨(天皇が下す命令書)を賜りますならば、直ちに官軍の忠義の戦いを援護し、帝の執政による徳化を仰ぎ申しあげるつもりでございます。(後略)
(上原作和・小番逹監修・訳、鈴木邑訳『完訳 太平記(二)(現代語で読む歴史文学)』勉誠出版、2007年)

幕府滅亡時の父親の非を認めても足利尊氏を討ちたい、という、尊氏打倒にかける時行の強い思いが感じられる内容です。結果として後醍醐天皇に許された時行は、南朝方に加え入れられることとなりました。1337年に時行は伊豆で挙兵し、再び鎌倉入りを果たしています。また1352年には時の室町幕府での内部抗争(観応の擾乱)に乗じて軍事行動を起こした南朝軍に加わり、三度目の鎌倉入りを果たしています。しかしこれが時行最後の鎌倉入りとなりました。1353年5月20日、時行は鎌倉郊外の刑場で処刑されました。享年25と推定され、「鎌倉幕府が滅びてから二十年を迎える日の二日前」に生涯を閉じたとされています。

北条家が用いた家紋:三つ鱗 をめぐる逸話

『逃げ上手の若君』原作(各話タイトル)やアニメ(オープニングや次回予告)でも印象的に用いられていますが、北条家の家紋は「三つ鱗」と呼ばれる、三つの三角形を組み合わせた家紋です。先ほども引用した『太平記』には、この家紋にまつわるある逸話 が記されています。

時はさかのぼって「鎌倉幕府が成立したばかりのころ」、鎌倉幕府の初代執権・北条時政(時行の先祖に当たります)は、江ノ島の江島神社にこもって彼の子孫が繁栄することを祈っていました。この祈願が21日目に差しかかった夜、彼の前に現れた「赤い袴と、白い布に柳色の裏地をつけた着物姿の、美しくも威厳のある女性」が、時政の前世の行い、そして彼の子孫が「未永くこの日本の主となって、栄華を誇る」だろう、というお告げを残します。注目したいのはその後のことでした。現代語訳から引用します。

「だがその後ろ姿を見ていると、あれほど美しかった人がたちまちにして身の丈二十丈(約61メートル) ほどもある大蛇に変わって、海中へ入っていったのだ。大蛇が這った跡を見ると、大きな鱗が三個落ちていた。時政は祈願が成就したと喜んで、すぐさま鱗を拾い、その形を旗の紋にした。現在の三鱗形の家紋がこれである」(『完訳 太平記(一)(現代語で読む歴史文学)』)

お告げを残した巫女の正体が大蛇で、その鱗を紋に採用したというのはいかにも伝説、というものを思わせる面白いエピソードですね。ただし、「北条は早くからこの紋を用いていたようで、この『太平記』の話は、それを神話化したもの」(『太平記 一(新潮日本古典集成)』(山下宏明校注、新潮社、1977年) )とも言われています。

北条時行にまつわる日本の観光地

ここまで、『逃げ上手の若君』の主人公・北条時行の生涯についてご紹介してきました。北条時行に興味をもった方、さらには『逃げ上手の若君』ファンの方に向け、北条時行ゆかりのスポットをご紹介します。ぜひ「聖地巡礼」の参考になさってください。

鎌倉(神奈川県)

逃げ上手の若君 鎌倉 宝戒寺
宝戒寺・本堂 写真提供:鎌倉市観光協会

最初にご紹介するのは時行の故郷・鎌倉(神奈川県鎌倉市)です。一般的には、屋外に鎮座する「露坐の大仏」として知られる高徳院の鎌倉大仏 や鶴岡八幡宮 、鎌倉五山 と呼ばれる五つの寺院(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)などが、鎌倉の観光地として広く知られたスポットとなっています。特に北条時行や『逃げ上手の若君』にまつわるスポットとしては、北条氏の歴代執権邸跡に建てられた宝戒寺 、時行の父・北条高時が自害した「鎌倉幕府滅亡の地」とされる東勝寺跡 (現在は目にみえるランドマークは残されていないとのこととです)があります。また、少し足を伸ばして鎌倉郊外の藤沢市にある龍口寺には、時行が処刑された地・龍口刑場跡 の石碑が建てられています。

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諏訪湖周辺(長野県)

そしてもう一つ紹介したい場所が、諏訪湖周辺のエリアです。諏訪大社 (長野県茅野市・諏訪市・諏訪郡下諏訪町)は、この諏訪湖を囲むように位置する上社(前宮と本宮)、下社(春宮と秋宮)の四社からなる神社で、『逃げ上手の若君』にも登場する諏訪頼重は、上社で神官のトップ を務めたとされています。なお、お参りの順番に特に決まりはなく、回りやすい順番でお参りして構わないとのことですので、現地を訪れた際はぜひ四社すべてを巡ってみてください。

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